敗戦。何を目標に何を糧に生きていくべきか、日本国民の多くが茫然自失となった時である。飛び込みの営業で鉄道省(現JR)より委託調弁を受け、自動車用歯車を納入。一方で将来に備えるための投資に努める。技術陣を充実、設備の増強、そして歯車の材料となる鋼材のストックに励む。こうして歯車の需要が高まるときに備えた。1947年11月・大久保歯車工業株式会社を設立。1948年小松製作所との取引が開始され、仕事量も順調に増え続けていく中、真の意味での歯車メーカーになるべく、更なる設備の増強に努める。たとえば、熱処理工場の増設は総合歯車メーカーを目指すことを可能にした。
1950年朝鮮戦争による特需をきっかけに成長軌道へ。米軍の要求に応えるべく、さらに設備投資を活発化し、技術水準を高めていく。
町工場からの脱却。
もはや戦後ではない……高度成長が幕開けし、「技術革新(イノベーション)」が謳いあげられ、戦後復興後の日本経済の進むべき道が示唆される時、当社は合理化委員会を発足させる。これは引きずっていた町工場体質からの脱却をはかり、一気に社内の近代化を計ろうとする利家の意図である。原価を3割切り下げるための能率向上、徹底的な無駄取りなどの合理化の徹底は、中小企業庁の計画した第1回モデル工場に指定されるという快挙を果たす。また、1958年には研究課を新設し、メーカーからの受注だけでなく、自社オリジナルの製品開発に乗り出す。
こうして大久保歯車工業は、急速に近代化ファクトリーへの歩みを進めていく。